無価値感からの脱却

私は、幼少期から真ん中に興味があって、

小学校の時から氣付いたらリーダー的に位置にいることが多かった。

が、そうしない姿に「もっとリーダーとして引っ張れ」みたいなことを先生から言われてきた。 


大人になってもリーダーとして期待され、そのポジションに立ってみるが、

相変わらず違和感しかなく、ようやくその違和感の正体がわかってきた。


 今のリーダーは、ほとんどがヒエラルキーな社会構造のトップをさし、

そうなると他の人が受け身になり、人の顔色を伺い、

自分の意見を責任をもって言いたがらなくなるような氣がしていたからだ。


私が私がというリーダーにはいい形かもしれないが、

上下のない世界に心地良さを感じる私にとっては

真ん中でゼロのエネルギーでいるのが理想なのだ。


 ところで、皆さんは、自分の価値について考えたことはあるだろうか?

社会構造がヒエラルキーなので、一方向からの切り取った価値によって位置する場所があり、

つい価値がない人、価値がある人と選別をしてしまいがちである。

しかし、その正体は社会構造の上下の問題であって、

決して人の上下ではないはずなんだけれども、

勘違いして自分の問題だと不足感に苛まれてしまう。私はそれが無価値感だと思う。


 無価値感の人の行動の特徴として、

①人のエネルギーを無意識で奪う

②自分に価値を求め、やたら知識を入れて不足感を埋めようとする

というのがあり、見ていると、この両方が顕著に当てはまる人と片方だけが当てはまる人がいる。 

まず、①人のエネルギーを無意識で奪う人の特徴は、

不足感を自分で何とかするのを諦めた人に多いように思うが、

「すごいね。私には何もない」というセリフを吐く。

 私から見たら「ある」しかないけれど、本人は「ない」という。

 諦めているから自分の「ある」を探すことも放棄してしまったのだろうか?

「妻」「母」「嫁」という立場も

「不登校」「キャリアウーマン」「店員」などという体験も、

業界の裏側もあなたの知っていることはあなたしか知らない。

「そんなこと言ってもあなたは特別、あなただからよ。私には価値がないんだから。」という人がいたら、

その人と私との違いは何かと言うと、

恐れずに「私はこんなことを知っている。こんなことを感じている」と発信していることぐらいだ。発信しているから、それなりに話術は上達する。


自分の話した内容に価値があるかどうかは、

聞いた人がそれに興味を持つか持たないかの話であってあなたが決めることではない。

 自分のことを発信しない人には、何を考えているのかわからないから集まりようがない。

ただそれだけだ。


次に②自分に価値を求め、やたら知識を入れて不足感を埋めようとする人。

これは、 私自身がこれに当てはまっていて通過してきたからわかるけれども

「頑張らないと認めてもらえない」という親子関係などの中で生じた心の問題を

抱えているケースが多いと思う。 

こういうタイプの怖いところは不足感を埋めることを諦めてないから、

自分の無価値感を家族や他人にも強要し「働かざる者、食うべからず」という発想になりがちなところである。

勝ちにこだわるのもこのタイプの人かもしれない。


これがエスカレートした事件が相模原障害者施設殺傷事件で

「意思の疎通が取れないような重い障害者は、安楽死させたほうが良い。彼らは人々を不幸にするだけだから」と19人の障害者が殺された。

生きるに値しない生命なんてないと思うが、生まれた瞬間から競争にさらされ、

ヒエラルキーの頂点を目指し、椅子取りゲームのように誰かに勝たないと自分の椅子がなくなる

といった不安から逃れられない社会構造の中で、

誰もが無価値感を抱き、追い詰められている結果起きた事件だったと思う。


 これから時代は変わる。

そんなヒエラルキー構造による不安を煽る世界は終わり、年月をかけて安全安心なフラットな関係の社会構造に徐々にシフトしていくだろう。 


そこで、安全安心な社会を望む人は、まず自分の中の無価値感を手放すことを心掛けてほしい。

心がヒエラルキーを抱えたままだと社会は変わらない。

なぜなら、社会は心の投影だからだ。


自分の中にある「ある」を認識し、どんな形であれ、そのエネルギーを差し出すと、

きっとその先には素敵な「氣づきのギフト」が待っている。

これは、宇宙の法則だから必ずある。


 私は、これに氣付いて「ある」を意識していたら、

「ない」と思っている人にとってはその根拠がない自信が鼻につくみたいで、

謂れのない嫌われ方をし、人間関係を一方的に終了される

という経験を一度ならず何度もしている。

何の攻撃もしていないのに「ある」というのがそんなに悪いことかと

不思議で仕方がなかったけれども、無価値感を心地よく楽しんでいる人を

知らずのうちに脅かしたのかもしれないと考え直し、

改めて自分を見つめ直すきっかけとなった。


 長い道のりだったが無価値感の脱却をしつつある今、

振り返ってみると、やっぱり「ある」を意識することは大切で、

「ない」は一旦「ある」になり、

揺らぎの中で自分の中のいい按配を探っていくしかないと思う。


「ある」も「ない」もない「ニュートラルな世界」

私のゴールはやっぱりここかな。

外を見ると桜が素敵に花を咲かせ始めている。

自然はいい。ニュートラルな世界。

 「ある」も「ない」も何にもないから、

最高に素敵な時に、その価値に執着することなく潔く手放し、

また会いたいと思わせる。

見習うところがいっぱいだ。  

ココロとカラダをととのえる mahina

はじめまして、宮下桂奈です。 右半身麻痺で難病の息子に寄り添う中で知ったココロとカラダのバランスをととのえるヒモトレ、波動をととのえるグッズの数々、そして自ら考案した自然素材とヒモをコンセプトにしたハンドメイドランジェリーのことに加えて、皆さんのココロのバランスをとるのにお役立ていただける情報を日々雑感とともにお伝えしていきたいと思います。 どうぞよろしくお願いします😊

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